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 父性原理、母性原理と私が呼んでいるものは、端的に言うと、父性は「切る」、母性は「包む」機能を主としている。
父性は善と悪、できる者とできない者、固いものと柔かいもの、何でも明確に区別してゆく。
それに対して、母性はすべてを全体として包みこんでゆく。
この原理のどちらが正しいというのではないが、片方の原理が正しいと思うと相手を攻撃したくなってくる。
 先ほどの例であれば、処罰派は片方の教師を「甘い」とか、姿勢があいまいたと言って攻撃するし、それとは逆の立場に立つと、相手を冷たいとか排除的だなどと責めることになる。
時には、相手を教育的ではないとか熱意に欠けるなどと言ったりするが、実際はそんなことではなく、考え方の基礎が異なるのである。
よって立つ原理が異なるとわかれば、妥協の道などが見出されようが、相手を非教育的とか、考えがまちがっていると決めつけると、対話が成立しないのである。
このような議論の混乱が、教育のことを論じる際に多いように思う。
 以上のようなことは、すでに他書に論じてきたことであるが、今後の議論を整理する意味で、ここに少し整理して示すことにする。
 割り切って言えば、日本は欧米に比して母性原理が強い国であったが、国際交流が活発で、かつ欧米の文化を輸入している間に、父性原理の方も大分輸入しつつある。
そして、頭で考えるときは‐特にインテリは‐父性原理に近いのだが、実際行動や感情的な面では、まだまだ母性原理によって生きている、というところである。
 表を見ていただくだけで相当よくわかると思うので、ごく簡単に述べる。
父性原理は、「切る」ことによる分割の最小単位のひとつとして、人間の「個」ということを重視する。
個を確立し、その成長を願うことが目標となる。
これに対して、母性原理ではすべてが包まれたひとつの「場」-これは、きわめてあいまいであるが‐の平衡状態を維持することが大切である。
このため、個人が自己主張を強くしたりせず、全体のバランスを常に考えていなくてはならない。
これは「全体主義」とまちがわれることがあるが、それとは異なる。
個人が全体に奉仕するなどというのではなく、場の方がまず個よりも先行しているのである。
 父性原理では個人差つまり能力差を認めるので、競争ということが大切だ。
しかし、母性原理では絶対的と言っていいほどの平等感がある。
ところが次が大切な点なのだが、全体が平等であることを前提として、そこに何らかの組織をつくろうとすると、一様に順番をつけるより仕方なくなる。
これは能力に関係なく、昔は「長幼序あり」という考えによっていた。
しかし、ここに現代の日本のように、父性原理による能力差の考えが混入してくると、すでに論じたような、途方もない一様序列が、成績によってつけられることになってしまう。
 二つの原理は簡単には両立しない。
そしてこのような考えの差によって、教育のなかでどれほど多くの「論戦」が生じているかがよくわかるであろう。
 1から5までの評価をつけるのは駄目だ、全員3にしろと主張する人は、強い母性原理によっている。
入試によってよい学生を選別し、鍛えあげないと、国際競争に負けてしまうと強調する人は、父性原理によっている。
確かにどちらも一理はある。
しかし、競争原理と母性原理による一様序列の考えとが、知らぬ間に結合し、それが小学校まで及んでくると、すでに論じたように弊害は目にあまるものになってくる。
西洋化していると言っても、日本はまだまだ基本的に母性原理で動いている。
そのよい方を述べると、全体としての一体感のようなものに支えられ、欧米人の味わうような凄まじい孤独感を体験することが少ないことや、能力が低くても全体によって支えられている傾向があるので、犯罪や非行が欧米先進国に比して、きわめて低いということであろう。
家庭内暴力などと言っても、日本とアメリカではその激しさが全然異なっている。
 母性原理が強いなかで、西洋流の個の確立を意図する者は、大変な困難に会う。
あるいは、創造的な活動をしようとする人にとっても、「足を引っぱる」人が多いために苦労しなくてはならない。
ともかく、人々と異なることをするのが極端に難しいのである。
このようなことは、母性原理の短所と言っていいであろう。
創造性の高い人が「海外流出」したりするのもこのためである。
 これ以上あげることはしないが、父性原理と母性原理は一長一短であって、優劣を論じることはできない。
ここにこの問題の難しさがある。
 論を先にすすめる前に、父性原理についてもう少しつけ加えたい。
この点について誤解する人が多いからである。
わが国において、父性が弱いという認識がだんだんとできてきたのはいいが、「父性復権」などと唱える人がでてきて、軍国主義時代の父親をさも強い父性をそなえた人物であるかのように誤解して、それを押しすすめようとする。
これはここに述べた父性原理をまったく誤解している。
 子どもの言うなりになって、子どもが勝手な行動をし、非行を重ねるのに、何も対応のできない父親が、実は戦争中に金鶏勲章などというのをもらっている「勇者」だったという例があった。
この男性は「号令」が上から下される限り命をかけて突撃する強さをもっているが、息子と一対一で対決し、自分の個人の意見を言うという強さは全然もっていない。
私が強調したい父性原理というのは、後者のような点を指して言っている。
 何事につけ、自分の意見をもち、それを明確に表明する強さと、皆がする限り命も棄てるという強さとは異なるものである。
後者のような行動は母性原理の体現者としての強さであり、父性原理的にはきわめて弱い行為と言わねばならない。
 このことがわかっていないと、父性復権のつもりで、生徒に細かい校則を押しつけ、そのためには暴力をも使用する、などということになる。
日本には父性原理の復活などということはない。
それはもともとなかったものなのだから、もしそれを必要と感じるならば、父性の新たなる獲得として意識されねばならないのである。
原理の弱さを腕力でカバーするのは、まったく馬鹿げたことである。
 二つの原理があって、それが簡単には相いれないとすれば、どうするといいのであろうか。
これに対しては、あるひとつの原理を正しいとしてそれを強化することを考えるのではなく、原理を深めるということを考えるべきだ、と思っている。
 ひとつの例をあげよう。
少し以前のことだが、ある中学校で修学旅行は東京旅行ときまっていたところ、急にある学級の生徒が絶対反対と言いはじめた。
自分たちのする旅行を上から押しつけられてはたまらない。
東京などまったく面白くない。
小遣いの制限があるのはけしがらん……などというわけである。
 すでに述べたように日本の多くのことは、相当に母性原理によって行われている。
これに対して、若い人が強い反発を感じ、強い父性原理的な主張をしたくなるのも当然と言えば当然である。
と言っても、それは突発的に生じてくるので、父性原理の伝統のなかに育ってきたのとは違って、個人の責任、他の人間との人間関係のもち方などの点で鍛えられていないので、暴発気味となる。

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